GammaRay はドイツ出身のへヴィメタルバンドです。1990年、長年ドイツのへヴィメタルシーンの 第一人者としてシーンを牽引してきた Kai Hansen (G,Vo) が、自身のバンドであった HELLOWEEN を脱退し 新たに結成したのが GammaRay です。ここでは GammaRay を語る上で外せない HELLOWEEN での Kai の 活躍から脱退といった時代からストーリーを書いてみたいと思います。
HELLOWEEN 時代 GAMMA RAY 時代

1984-1986:ジャーマンメタルの王登場

バンド HELLOWEEN を率いてドイツの、いや世界中のメロディックへヴィメタルファンを 魅了し名実ともにジャーマンメタル第一人者となった Kai Hansen。彼は1970年代後半から その音楽活動を始めている。地元 Hamburg では名を轟かせつつあった Kai 率いるへヴィメタル バンドは、1984年創立されたばかりのへヴィメタル・インディペンデントレーベル NOISE から サンプラーへの参加を要請されたのを機にバンド名を HELLOWEEN とし、初の本格レコーディング 作品 "DEATH METAL COMPILATION" に2曲を提供する。ここには盟友 RUNNING WILD や GRAVE DIGGER といった実力派バンドも収録されていた。しかし当時デスメタルという表現は 市民権を得ておらず、せっかくのレコードも激しいジャケットのせいで親に見せにくかったと 初代 HELLOWEEN ドラマーの Ingo は語る。

もともと DEATH METAL COMPILATION は RUNNING WILD を売り出したいがために NOISE が 企画した作品だった。しかし実際には HELLOWEEN の激しくも何か物悲しいメロディと突き刺さるような Kai のハイトーンシャウトが人気を博していた。1985年4月、ついに NOISE から HELLOWEEN のデビューミニ アルバム "HELLOWEEN" がリリースされる。レコーディング時は Kai はひどい風邪を 引いていたというが、リリースから15年経った今でもその超絶ハイトーンは健在だ。メンバーは、 ヴォーカルとリードギターを兼任する Kai に、ベースの Markus Grosskopf、ドラムの Ingo Schwichtenberg、 もう一人のギターに、デビュー直前に加入した Michael Weikath という4人構成だった。

精力的にツアーをこなしていく HELLOWEEN は、1986年7月にフルアルバムをレコーディングする。 このアルバム "WALLS OF JERICHO" のトップに収録されている RIDE THE SKY は特にヨーロッパのへヴィメタルシーンで大人気となり、ポーランドの HM チャートでは6週間連続 No.1 という栄冠を勝ち取ったことは、今はジャーマンメタルシーンでは伝説として語り継がれている。

「ロンドン橋」のメロディにあわせ「Happy Happy Halloween …」と歌う何とも和やかなオープニングに 続いて破壊的なギターが炸裂する HELLOWEEN のショーは各地で話題を呼び、ヨーロッパ各地をツアーする。 1986年秋には、腐敗する政治問題を背景にした新曲 JUDAS を収録したミニアルバムを発表し、ますます 波に乗る HELLOWEEN だったが、リーダーの Kai は、どんどん速くなる HELLOWEEN の楽曲に対し、 ギターとヴォーカルを兼任する今のスタイルはすでに限界だと感じ始める。


1987-1988:成功そしてエゴ

そして Kai は遂に、専任ヴォーカル探しを行う。友人から薦められて聴いたという ILL PROPHECY という バンドのデモテープで歌っていた Michael Kiske に興味を持った Kai と Weikath は、彼の声域に 合わせた楽曲を作成し、Kiske とコンタクトを取る。Kiske は当時若干17歳、まったくヘヴィメタルを 知らなかった彼は HELLOWEEN に勧誘されオーディションを受けるが、最初は楽曲がヘヴィすぎると拒否して いたらしい。しかしメンバーの再三の説得と、さらに「Kiske の声に合わせた楽曲が用意してある」という 言葉を受け、1987年 HELLOWEEN に加入する。

Kai とは違い伸びやかで丸い印象の Kiske が加入したことで、それまで攻撃的だった HELLOWEEN の 楽曲が多少ポップな要素をもち始める。これにより人気が急増し、Kiske 加入後リリースされた "KEEPER OF THE SEVEN KEYS I" は世界中でヒットとなる。タイトルに I がついている ことからも想像できるように、もともと2枚組アルバムを製作するつもりでいた HELLOWEEN だが、 NOISE から反対され断念、2枚別々にリリースされることになった。またこの KEEPER I には、 新加入の Kiske が ILL PROPHECY 時代のデモにも収録されていた A LITTLE TIME を提供していることも 話題となった。この後、Kai & Weikath という2大作曲柱に、Kiske という3本目の柱が加わっていくことに なる。

日本を始め、ヨーロッパ、あるいはアメリカでまでも好セールスを記録したこのアルバムのツアーで HELLOWEEN はヨーロッパ、イギリス、アメリカ、日本へと渡る。ドイツ版モンスターズ・オブ・ロック 1987 では、 あの DEEP PURPLE や METALLICA と共にライヴを行っている。そのまま彼らは MTV のヘッドバンガーズボール ツアーで ARMERED SAINT や GRIM REAPER と共にアメリカ全土を回る。そしてその直後の 87年11月、初来日公演 が実現した。

そして満を持して 1988年に第2弾 "KEEPER OF THE SEVEN KEYS II" が発売される。 このアルバムは勇壮な劇的構成の曲と様式美系の曲、ポップセンス溢れる曲満載の、当時の彼らの最高傑作とも 言われる作品になったが、実はこのアルバム制作時にギタリストの Kai は脱退を決意し、既に夏にはマネージメントに 意志を伝えていたという。理由は肝臓疾患や曲作りの時間が欲しかった、などと色々言われているが、 もう一人のギタリスト Weikath とのバンド内権力抗争も大きな要因であったのではないかという見方もある。 そのため、エゴから脱出したい一心だった Kai はその思いを曲に託し、"I WANT OUT" という名曲を生んだと いうのも皮肉な話だ。また、この頃から Kai 以外のメンバー、Weikath と Kiske の作曲能力が開花し、 どんどんと名曲を書いてゆく。それを見た Kai は Kiske が曲を書いている事に非常に喜んだという。 彼が一番気に入っている Kiske の曲は、シングル "DR.STEIN" に収録されている DON'T RUN FOR COVER という曲だが、当の Kiske は後に「あれは最低だ」と言ったのも哀しいエピソードの 一つかも知れない。

そして年が明けて 1989年1月1日づけでもって、Kai Hansen は自らが率いてきたバンド HELLOWEEN を脱退する。


1989-1992:GAMMA RAY の結成

HELLOWEEN を脱退した Kai は、新たなる音楽活動のカギを得るために、地元 Hamburg にあるハンブルグ大学 の分校へ通う。その間、ドイツで人気を博しつつあった若手バンド BLIND GUARDIAN のアルバムへの 友情出演などメインでは無いものの私たちの前に彼がまだ健在であることを知らせてくれていた。 1989年9月、満を持してレコーディングが開始された Kai のニューアルバムは、当初は Kai のソロプロジェクト 的雰囲気の強いものだったという。ヴォーカルとして選ばれたのは、HELLOWEEN がまだ無名だった時代からの 友人である Ralf Scheepers。彼は南ドイツを拠点とする TYRAN' PACE というバンドでヴォーカルを務めていた。

そして1990年1月にレコーディングを終了させ、遂にリリースされたアルバムは Kai 名義ではなく、GAMMARAY というれっきとしたバンド名義のものだった。 "HEADING FOR TOMORROW" と題されたそのアルバムは 楽曲のほとんどが Kai のペンによるもので、疾走する典型的なジャーマンメタルスタイルからポップなもの、 オペラティックなもの、プログレな展開を見せるもの、そして14分半もの超大作など、さまざまな要素から なっている。参加メンバーは、Kai(G)、Ralf(Vo)のほか、Uwe Wessel(B)、Mathias Burchart(Dr) である。

ライヴをするに当たって Kai はバンドの正式メンバー探しを行った。というのも、アルバムで叩いていた ドラマーはスタジオのみのサポート的な扱いだったからだ。ライヴメンバーとしてドラムに元 HOLY MOSES の Uli Kusch、セカンドギターに MONEY でベースを弾いていた Dirk Schlachter を迎え、5人編成と なった GammaRay は1990年11月に待望の初来日公演を実現させる。二度目の日本となる Kai はライヴで 自らがヴォーカルを取り RIDE THE SKY を熱唱し、また HELLOWEEN 時代に日本で(脱退していたため) 演奏できなかった SAVE US や I WANT OUT を Ralf バージョンで披露した。 熱狂の日本公演の模様はオフィシャルライヴビデオ "HEADING FOR THE EAST" として発表されている。

日本を後にした GAMMARAY は曲作りを行い、91年2月に新作のリハーサルを開始する。デンマークやハンブルグの 地下シェルターを利用してのリハーサルを重ねた GAMMARAY は、1991年10月19日、新作 "SIGH NO MORE" を発表する。この作品ではプロダクションに 非常に凝っていて、使用チャンネル数も80以上などと技術を駆使したものとなっている。音的にはソリッドで 人工的なイメージを持つ。アルバムが発表されてすぐにヨーロッパツアーを開始し、翌年1992年1月末に 再来日公演を果たす。


1993-1994:Ralf との訣別

来日公演を終えて GAMMARAY は、自分たち専用のスタジオ HANSEN STUDIO を地元 HAMBURG に建設する。 しかし順調に進んでいた GAMMARAY にメンバーチェンジという悲劇がふりかかる。ドラムの Uli は以前から さまざまな音楽的、プライベートでの問題を抱えており、GAMMARAY からの脱退を申し出たのだ。Kai は、 以前から GAMMARAY がバンドとしてのチームワークに疑問を感じ始めていたため、Uli の脱退と同時に バンドについて考え直すことにしたという。そこで話し合った結果、Uwe もバンドを去ることになる。 しかしライヴ予定があったため GAMMARAY は急いで新メンバー探しをやらねばならなかった。偶然にも、 彼らのスタジオがあるビル内の別のスタジオで練習をしていた Thomas Nack(Dr)、Jan Ruback(B)と 出会う。彼らは自身のバンド ANESTHASIA が解散したばかりだったため、とりあえず Kai は彼らを目前の ライヴ用メンバーとしてバンドに迎え入れるが、これが大成功だったためともにアルバムを作成することに なる。

1992年9月に新作のための曲つくりを始めた GAMMARAY は、翌1993年7月に3作目となる "INSANITY AND GENIUS" を発表する。新メンバーの2人はこのアルバムでタイトルトラックを提供しており、また 前作での Kai いわく「クリーンすぎた」音作りを一転してライヴを思わせる生々しい音作りにした のが特徴である。また、Kai がヴォーカルをとった "HEAL ME"、Dirk が歌う "YOUR TURN IS OVER" も特徴の一つである。

その Thomas と Jan を加えた新 GAMMARAY は、1993年9月にドイツで MELODIC METAL FESTIVAL と 題したツアーを RAGE、CONCEPTION、HELICON と行い大成功を収める。その模様はオフィシャルライヴ アルバム "POWER OF METAL" で楽しめる。 その後1994年3月には3度目となる来日公演を果たす。

(つづく)


1995-1996:度重なるメンバー交代


1997-1999:そして結束へ


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